Tuesday, March 13, 2012

【挨拶・雑感】 松本になりました

<よろしく、松!!>

2012年3月9日を以て、27年半親しんだ新井の姓を松本に変更することになった。
松本とは、所謂母親の旧姓である。
これに関して、先週末は区役所、警察、銀行等走り回る必要があり、実務的に大変疲れた。
とは言え、この件に関しては心理的な意味合いが非常に大きかったと思っており、人生の一大イベントでもあるので、思ったことをここに残しておきたい。


【簡単な経緯】
2007年に父親の会社が倒産し、それにより両親が籍を分けることになった。
その後、籍は分けたものの皆で協力してやっていこうとしたが、父親が生活能力を著しく低下させた自分に卑屈になったのか、家庭に対して非常に非協力的で内向的になり、結果1~2年後には母親の気持ちも冷め、完全な別離に。
母親は名古屋で双子と同居、弟は東京で僕と同居という形になった。
父親とはほとんど誰も連絡を取らなかった。(母親は本当に取らなかった。子供三人は何度か連絡したが、取れなかった。 →最近取れるようになって安心している。)

それでも僕、双子の兄弟、弟の3人は父親の姓を使い続けていたのは、何となく母親がその内(元の)父親と元に戻るのでは的な期待感があったのは否定できない。
なぜなら、両親は過去から何度も喧嘩(程度は大小色々あったが)はしており、その度にしっかり仲直りをしていて、「今回もそういうもので、程度が過去最大なだけでしょ」みたいな気分があったからだ。
そして、息子ながらに、経済的にも十分豊かで、家族みんなが仲良く、明るい新井家は最高の家庭なんだという誇りがあったからだ。
つまるところ、新井という姓は、家族5人がもう一度揃う可能性が0でないことを、その使用により確認していた様なものだ。


そうこうしている内に、2011年11月、いきなり母親が自身の再婚話を切り出してきた。
このニュースは嬉しい反面ちょっと複雑ではあった。
嬉しさは兎に角安心感から来た。
そりゃあそうだろう、今までは今後どう母親を支えるんだろうというぼやっとした不安感があったのが、大きく薄まったからだ。
一方で、新井家という自分の中にあった仮想Familyがなくなる瞬間だったという意味においての寂しさはあった。
この段階で、新井を名乗り続ける意味合いが実質的に無くなり、新井という名を変える決意が固まった。
母親が再婚するため、松本になるには祖父母の養子に入る必要があったり、色々手続きに時間がかかり、それがAll clearになった末の2012年3月9日、晴れて松本になったというのが凡その変更経緯である。



<美加の台時代の新井邸>

<懐かしの、美加の台小学校>

【思うこと】
1、よい家族を作りたい気持ち
一度上記したが、僕は新井家というものが本当に好きだったことは改めて記載しておきたい。
喧嘩等は色々あったものの、全員とても仲良く、明るかったあの家は素敵な家庭だったと確信している。
特に、5歳~18歳(大学から東京)を過ごした美加の台は一生忘れられないと思う。

親父がプールで浮き輪に飛び込んで頭打って血を流してたこと、兄弟3人で親に隠れてファミコンしててばれて叱られたこと、風邪の時に母親が看病してくれたこと、全てが楽しかった。
一時離婚とかがあった時に、それを残念に思う気持ちからか、「新井家」というものに対して悪いイメージを感じてしまったことがあったが、今はそれがただの反動であったことが分かるし、今後、新井家に対して本来感じていた楽しさと誇りはぶれさせずに生きていきたい。

それを踏まえて、将来生まれるであろう自分の子にも、自分の家庭を楽しく思って欲しいし、誇りを感じて欲しいと思う。
そして、それが無くなる寂しさを感じさせることなく、ずっと幸せにしてあげたいと強く思う。


2、絆を深め続けることの必要性
両親は7年とかの大恋愛を経て結婚したらしい。
その間に両家の親からも大反対されただとか、そういった障害を二人で乗り越えて結婚したという話を何度も聞いた。
それでも最終的に駄目だったのだ。
やはり、結婚はゴールではないのだということをそのまま証明している様なものだと思っている。
血の繋がった親子や兄弟でも縁を切ったという例が十分すぎる程あることを考えると、ましてや血の繋がっていない人同士が、結婚という形にのみ頼って何十年もうまくやっていくことなど到底不可能なのだと思う。

両親の関係を出来るだけ客観的に見直してみて、僕は父親の態度に主に問題があったと言わざるを得ない。
「男は最終的にしっかり稼いで家庭を支え、あとは背中で語ればいいんだろ!」的な側面が年を取る毎に強まり、日々における感謝の気持ちと何気ない会話が最終的には著しく減ったと思う。
特に事業失敗後は、その気持ちが卑屈さに繋がり、家庭関係の崩壊をより加速させたのは上記した通り。
夫婦を支えるのが絆なのだとすると、その絆を深めるのはまさしく嬉しい時の「ありがとう」と、申し訳ない時の「ごめんなさい」であり、それを続けなければ絆が深まらないばかりでなく、どんどん綻んでいくのだと確信している。

付き合ってる間も、結婚しても、子供が生まれても、子供が巣立っても、ちゃんと「ありがとう」と「ごめんね」を大事に出来る自分でありたいし、そうならなければならないと思う。


上記2点を意識しながら、松本としての第二の人生を楽しくて深いものにしていきたいと思う。


<ぺこり>

今まで仲良くして頂いた皆様、新井悠平を支え、成長させて頂き、本当にありがとうございました。
これからも松本悠平を宜しくお願いします。

ということで、今日以降を今までの27年半よりもっと楽しい人生にするべく、全力で走り続けます。

Wednesday, March 7, 2012

【雑感】 弟との生活が終ります



この3月末で、2年間続いた弟(洋平君)との生活が終わる。
本当に色々苦労があったが、今となってはしてみて良かったなって思えるので、その気持ちを忘れない様に、文章にしておきたい。
自分のための備忘録的な部分も大きいので、駄文だが悪しからず。

【一年目の苦労】
基本的には苦労の全てはお金だった。
セガサミー等のパチスロ関連職に就きたいという夢を追って、専門学校に入ったはいいが、今の我が家の経済状況的には年間100万円の授業料は重かった。
なので、家賃は洋平が自分で一定分持つという取り決めにし、月2万円払わせた。
で、4月にいざこっちの家に引っ越してきたら、手持ちが2000円しかなかった。。
バイト始めるにも面接とかでリードタイムかかるし、働き始めてから入金までもリードタイムがあるので、最初の手持ちは少なく見積もっても10万円はいるだろうのにである。
しかも、おばあちゃんに10万円ぐらいは借金してただとか、専門学校に未払いが実は10万円あっただとか、後から後からボロボロ隠れていた問題が噴出。
その時点でかなりクラッと来たが、パチンコ店でのバイトを開始したことでちょっと安心していたら、初めの給与受取日(確か2010年5月20日)に受け取った13万円が入った財布を盗まれたって、幽霊みたいな顔して言ってきた。
もうその瞬間、どうしよって本当に本当に目の前が真っ白になったが、取り返すしかないと彼に諭しながら、自分にもそれを言い聞かせる感じ。
勿論2万円の家賃は滞納が続き、生活費は貸してあげ続ける状態。
そんな状況にも関わらず、条件が悪いと言ってパチンコ店のバイト辞めたあとも、同様にバイトをどんどん変えるのだ。
とんでもなく不安だった。

一番あり得なかったのはパチスロ話だった。
2010年9月頃に彼が生活に困り、母親に5万円借り、僕に5万円借りていた際、10月の20日には全部耳そろえると約束したことがあった。
しかし、20日を過ぎて、家で顔を合わせても一向に何も言ってこないので問い詰めたら、「合計10万円必要なのに7万円しか集まらなかったから一発逆転を狙ってパチスロに行ったら、全部その金をすった」というもの。
さすがに唖然。
この日は、約束した日に返せないということを自分から言わなかったズルさ、絶対返すと約束した日に必要額を揃えられなかった計画性の無さを徹底的に叱った。
(パチスロ行ったのは本人のリスクの取り方であり、怒っても仕方ないと思い、叱らなかった。パチスロに行かざるを得なかった状況を作らしめた計画性の無さが本質的な悪。)

そういう状況はずっと続き、おばあちゃんの借金10万円、母親への借金5万円、僕への借金10万円みたいな状況で2010年11月を迎えた時、個人的に限界が来た。
そこで、日々現金で収入が入る日雇いバイトに行かせ、その出勤計画表を日時単位で細かく作成させ、日々その進捗状況と現金を僕が管理する様にした。
その結果、12月末の年末に帰省する際には、おばあちゃんと母親の借金を返済し終え、僕にあと5万円の借金が残っているのみみたいな状況まで立て直せた。

そこで安心し切った僕も良くなかったが、1月2月と、彼はバイトを一回もしなかった。
僕は毎日顔合わせると、「バイト行ってる?」と確認したが、毎日「うん、行ってるよ」って言ってたので信じていた。
本当にちゃんと彼を見てれば、「何か違うな」と感じるべきだったと思うが、自分自身も色々忙しく、そういうのに目をつぶっていたのだろう。
(彼はお金が無くなってくると、家にある非炭水化物をどんどん食べるので、家の中の様子がちょっと変わってきたりする。)
気付けば、2011年2月末には借金20万円、手持ち現金0円という惨状。

ここで、母親と僕と洋平で、もう来年は学校行かずに大阪帰れっていう話をシリアスにした2時間は本当に辛かった。
自分自身は母親への義務感とか義理みたいなので弟を預っていたが、ちゃんと導いてやれなかった自分が恥かしい気持ちとかで何が何やら分からなかった。
母親と僕はここで本当に大阪帰らせて彼の夢とか奪ってしまったんだって将来後悔したくないから、彼に来年こそ立ち直るという決意表明をして欲しかったのだが、その舞台をこっちがわざわざ作っても洋平は2時間一言も発しなかった。
しかも彼の携帯電話は当たり前の様に止まってるから、その場を逃したら次いつ話せるか分からないのに。
頭狂うかと思った。
この時が2年間で本当に底。


【泥沼からの好転】
その後、何とか彼から決意表明を引き出した。
ただ、そこから生活をまともな状態に戻すのは本当に骨が折れた。
とにかく、バイトを探すにも彼には探す力が無いのだ。
20万円の借金に手持ち現金0円だから、ちょっと遠くのバイト先には面接すら行けず、合格通知等の電話も受けれないのだ。。
結果、僕が10万円彼に生活資金用追加資金を融資した。(それは後に15万円まで膨らんだ。)
これは本当に苦渋の決断だった。
だって、当時自分も出費が続いたりしてて、本当に金欠だったので、15万円がとてもきつかったのだ。

ただ、それがあって彼はようやくバイトを探し始めた。
それまでは生活に困ってる様子が家の中の物から伝わってきて(海苔が凄いペースで減るとか)、顔色も悪かったのが、まともな食事をして顔色良くなったことで面接も通った様だ。
一時震災でバイト探しが中断せざるを得ず、ずっと家でゲームばかりしてた時期はちょっと気がおかしくなりそうだったが、それも乗り越え、4月から本格的に十番駅前の鳥貴族でバイトを開始し、ちょっとずつお金が返ってき始めた。
銀行の通帳とカードは完全に僕が預り、出費も全て管理し、バイト出勤日も管理する厳しさをした結果、合計35万円の借金を4月から9月にかけてで完済させた時は涙出るかと思った。

その後もちゃんとバイトをしている模様で、金銭的にも余裕が出来たみたいで、生活と気分が豊かで前向きなのが伝わってきて、それは本当に喜ばしかった。


【2年間での学び】
こういった同居生活を通して、色々学べたと思っているが、やはり以下の2点が一番大きいと思っている。

<1、怒りの本質について

当初、彼には凄くイライラしていたのだが、僕は彼のせいだとずっと思っていた。
しかし、イライラして僕が怒っては彼が同じことを繰り返す、そんなスパイラルの中でその現象の本質について考えた時、僕がイライラする理由が「彼がちゃんと決めたことをやらないから」ではなく、「僕が彼に対して高過ぎる期待値を持ち過ぎている」ためであるという、とても大切な本質に気付いたことはとても大事なことだったと思う。
例えば、上で書いたパチンコ屋で洋平が7万円スッた話で行くと、返済をい絶対失敗させたくないなら、その時点で通帳とカード預るとか、デイリーに行動を管理するとか色々オプションはあったはずである。
「彼にはちょっと出来なそうだな」って自分が思っているのにも関わらず、その課題・命題を相手に突きつけて、プロセスは放置気味で、結果が出ないと怒るっていうのは、やはりマネジメントの正しいあり方ではないのだろう。
相手を見て、その実力をフェアに判断して、不足しているなって思うならどうやってそのGapを埋められるか一緒に考える、これはとっても大事なことだと改めて認識。
特に、相手に何らか特定の成果を期待しているのであれば。


<2、相手を見て変化に気付くこと>
相手をちゃんと見ていると、変化に気付くはずである。

上記した様に、例えば海苔が明らかに凄まじいペースで減ってるとか、最近家にあまり帰って来ないなとか。



海苔が無くなってたら、やっぱりお金がなくて食べ物買えずに困ってるのだろうし、帰って来ない時は彼女出来てたりとかするのだ。(後者は喜ばしい事であるが。)

という様に、変化には何らかの理由があって、相手のことを大事に思うのであれば、それに敏感に気付かなきゃダメだと思う。
更に、もっと大事なことは、それに気付いたら「ま、いいか」で放っておくのではなく、積極的に会話せねばならないということだ。
僕は海苔が無くなった時に、ちょっと「サボってるからだ、ざまあ見ろ!」とか思い、結果彼が相談出来ない地盤を作ってしまったことが、後の借金増大に繋がったとも思う。
それを他の例で見てみると、例えば「気付いたら奥さんに浮気されてました!」とか、「息子が精神的に病んでいることに気がつきませんでした!」とかそういう事例は周りに転がっていると思うが、僕自身は今後、自分にとって大事な人をちゃんと見て、その人がおかしいなって思ったら、自分から進んで声を掛けれるようになりたいなって再認識。



・・・

いやあ、本当に書きつくせないな。
・初めて彼が家に来た2010年4月、2人で鍋をした時、洋平がボソっと「なあ悠平、今まで何人とやったん?」って聞いてきたこと
・洋平が風邪で寝込んでて、「何か買ってきたろうか?」って聞いたら、「米が切れてるから出来れば5kg買ってきて」ってボソっと言ってたこと
・僕の友達が来てる時に、一緒に飲もうやって混ぜたら緊張からか酒が進んで、顔が真っ赤になってたこと
とか、色々かわいいところは多かったな。
いい思い出ありがとう。

今後彼はまだ果たせてないパチスロ業界への就職という夢を追い続けるとのことだが、諦めずに向かっていって欲しいな。
そして、明るさと可愛さをなくさずにいて欲しいなって兄ながらに思う次第!!